【横浜歴史画】明治期の伊勢佐木町の賑わい

馬車道から吉田橋を渡った先の吉田新田に伊勢佐木町の町が新設されたのは明治7年(1874)のこと。町名は道路整備費用を寄付をした伊勢屋の中村治兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎の3人の名に由来するとされる。明治期より芝居小屋や寄席、百貨店の前身である勧工場をはじめ何でも揃うと言われた様々な商店、料理屋などが立ち並び庶民の町として大いに発展。明治32年(1899)の大火や関東大震災では町が焼失するほどの被害にあいながらもその都度すみやかに復興し、横浜最大、否、国内でも有数の盛り場となっていった。画像は明治後期の伊勢佐木町2丁目・3丁目界隈を写したものと思われる彩色写真。関東大震災後の町名地番改正前にはそれぞれ「松ヶ枝町」、「賑町」といい、寄席の新富亭、芝居小屋の賑座、両国座などの劇場が軒を連ねた。多くの人が行き交い、芝居小屋から無数ののぼりがあがる様子から、明治後期の伊勢佐木町における庶民の活気がうかがわれる。

当時の「松ヶ枝町」・現在の伊勢佐木町2丁目界隈。丸に竹の字は新富亭。豆屋や漬物屋など様々な商店が立ち並び、多くの人が行き交っている。

当時の「賑町」・現在の伊勢佐木町3丁目界隈。賑座、両国座といった劇場が立ち並ぶ界隈の活気を伝えている。

(彩色写真:NYPL Digital Collections蔵)

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2017-06-08 | Posted in 歴史, 横浜歴史画 | tag:

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