【横浜歴史画】瀬戸橋と東屋
江戸時代には観光名所として知られた金沢八景。当時の旅では大山詣・鎌倉詣・江の島詣とあわせて金沢八景を巡るコースが人気であったという。当時の観光案内ガイドブック『江戸名所図会』の挿図から、旅亭「東屋」をはじめ瀬戸橋周辺に旅籠屋や料理屋が立ち並び大いに賑わった様子を見ることができる。
【金沢八景】
金沢を代表する八つの景勝地「金沢八景」の地所が確立したのは、江戸時代に中国から渡来し、“水戸黄門”こと水戸光圀の手厚い庇護を受けた東皐心越(とうこうしんえつ)禅師が金沢を訪れたおり、能見堂からの眺望を中国湖南省の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)になぞらえて八編の詩を詠んだことに始まるとされる。以来「小泉夜雨」、「称名晩鐘」、「乙舳帰帆」、「洲崎晴嵐」、「瀬戸秋月」、「平潟落雁」、「野島夕照」、「内川暮雪」の八勝を指す「金沢八景」は広く世に知られるものになり、歌川広重が錦絵を描き、江戸時代の観光名所として多くの人が訪れるようになった。当時は大山詣・鎌倉詣・江の島詣とあわせて金沢八景を巡るコースが人気で、保土ヶ谷で東海道から分かれ蒔田~弘明寺~上大岡~能見台と続く金沢道を通って金沢へ至ると、瀬戸橋近くには料亭「東屋」をはじめ旅籠屋や料理屋が立ち並び大いに賑わったという。
【瀬戸橋と東屋】
「瀬戸橋」は嘉元3年(1305)に鎌倉幕府の北条貞顕の命により架けられた海上橋。かつて瀬戸橋の北側には平潟湾からさらに内側へ続く「内川入江」とよばれた入海が広がり、瀬戸橋の辺りは狭い海峡となっていて、流れも速く渡るのに難儀であったという。瀬戸橋は海峡の間に島を築き二つの橋を架けて、瀬戸と洲崎の間を行き来できるようにしたもの。内川入江は江戸時代から既に埋立てが始まり、現在は瀬戸橋の奥に内海が広がる景観を見ることはできない。橋のたもとの料亭「東屋」は伊藤博文らが明治憲法の草案づくりを行った場所としても知られるが、草案の入った鞄が盗まれる事件が発生したことから夏島の伊藤博文の別荘に場所を移し草案づくりは続けられたという。
『江戸名所図会』巻之ニ 天璇之部 絵:長谷川雪旦(国立国会図書館蔵)
二つの橋が架かる瀬戸橋界隈の賑わい。左手の料亭に”東屋”とある。
現在の瀬戸橋
瀬戸橋から平潟湾を望む
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