【横浜歴史画】吉田新田
かつては内陸奥深くまで入り込む入海であった大岡川、中村川、根岸線に囲まれた釣鐘状の範囲を埋立てつくられた「吉田新田」。吉田勘兵衛による大事業が完成したのは寛文7年(1667)のことで今年で350周年を迎えている。
戦乱の世が終わり徳川幕府が開かれ社会が安定するようになると、人口が増加し食糧増産の必要に迫られ、新田開発が盛んに行われるようになった。この江戸時代初期のいわば新田開発ブームに乗り、横浜の地で開墾を計画した人物こそが、摂津国能勢郡(大阪府)に生まれ、江戸に出て木材石材商を営んでいた吉田勘兵衛である。後に吉田新田となる土地は、内陸部まで深く入り込む入海で、湾の入口では洲干島と呼ばれた砂嘴状の半島が天然の防波堤のように横に延び、入海の最奥部は大岡川の河口で、川の流出する土砂が河口に積もって埋立てしやすい特徴をもっていた。吉田勘兵衛はこうした横浜の入海の特徴に目をつけ、江戸での商売で稼いだ材を投下し一大事業に乗り出した。
幕府からの許可を受け工事は明暦2年(1656) 7月17日より開始された。しかし翌年5月に13日間にも渡って降り続いた長雨の影響で、潮除堤が崩壊し工事は1年を待たず挫折する。もっともここで諦める勘兵衛ではなかった。改めて計画を練り直し、砂村新左衛門・友野与右衛門ら技術・資金面での協力者も得て、万治2年(1659)より2回目の工事が開始された。
工事の方法について詳しいことは分かっていないが、最初に新田となる範囲を決めて、ぐるりと囲むように堤を築き、内側は全て埋立てでなく干拓も行われたと推察されている。堤や埋立てに必要な土や砂は天神山(野毛)、大丸山(石川町)、洲干島から採り、潮除堤の石垣には安房や伊豆から石材が運ばれたという。
2回目の工事は中止されることなく進められ、寛文7年(1667)、11年の歳月をかけた工事は遂に完成し、新田は当初「野毛新田」と名付けられた。完成した新田の規模は約35万坪(115.5㎡)、堤の長さは約7㎞、要した土砂は約17万㎥(横浜スタジアム5.7杯分)、費用は8037両という大工事であった。この成功は時の将軍徳川家綱によって称えられ、寛文9年(1669)に吉田勘兵衛は苗字帯刀を許され、新田の名も「吉田新田」に改称された。寛文13年(1673)には土地の守り神として釣鐘の頂点に位置する地に山王権現を勧請し日枝神社(お三の宮)が創建された。
吉田新田の完成による入海の陸地化は、入海全体の8割程度であったとされるが、開港の頃にはほぼ全体が陸地化された。この土地が関内・関外の市中心地域を形成し、近代横浜の基盤となったが、その発端は今から350年前に吉田勘兵衛の類まれなベンチャー精神より始められた吉田新田開発だったのである。
吉田新田埋立て前の横浜の想像図 『横浜吉田新田図絵』より [国立国会図書館蔵]
吉田新田埋立以前横浜図 『横浜吉田新田図絵』より [国立国会図書館蔵]
吉田家所蔵の古図。釣鐘型の入海の頂上が大岡川の河口。向かって右の海岸線は現在の大岡川下流、左の海岸線が中村川になる。
吉田新田埋立開墾図 石野瑛『横浜旧吉田新田の研究』より [国立国会図書館蔵]
完成した吉田新田。新田の真ん中を流れるのは中川で現在の大通り公園にあたる。右は大岡川で左は中村川。新田は6本の道によって「一つ目」から「七つ目」まで区切られ、中川より右側を北、左側を南とし、「北一つ目」といった地名で呼ばれた。
吉田新田の大堰 『横浜吉田新田図絵』より [国立国会図書館蔵]
かつて吉田新田の釣鐘の頂点にあった取水口。現在の吉野橋付近にあたる。
明治3年(1870)の吉田新田 『横浜吉田新田図絵』より [国立国会図書館蔵]
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