【横浜の神社仏閣】羽衣町の厳島神社と洲干弁天社

今は関内駅にほど近い羽衣町に周囲をビルに囲まれて鎮座する「厳島神社」。かつては大きな入海だった関内・関外地区の湾の入口から横にのびる砂嘴状の半島・洲干島(洲乾・宗閑・秀閑とも書く)の先端にあり「洲干弁天社」と称した。

「洲干弁天社」は旧横浜村の鎮守で、創建は治承年間に源頼朝が土肥の杉山に鎮座したものを勧請したと伝えられ杉山弁財天とも称し、また境内ある七つの池から清水が湧き出たことから清水弁天とも呼ばれたという。歴代武将からの崇敬も厚く、足利氏満は紺紙金泥の般若心経を奉納し、太田道灌は社殿を再建したと伝えられ、徳川家光からは朱印地が与えられた。

本尊の弁財天像は弘法大師の作とされ江之島弁天と同木同材料であるという。本尊は元禄年中よりかつて元町にあった別当の増徳院境内に仮殿をつくって安置して上之宮杉山弁天と称し、本社には前立の像のみを置いて下之宮清水弁天と称した。

社の敷地は今の弁天通6丁目及び本町6丁目にまたがり一万二千坪余あったとされる。風光明媚な地として知られ、江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』では<此社地は海面に望勝景の地なれば、遊客神奈川驛より乗船して至る者多し>と記され、『江戸名所図会』においては<この地は洲崎にして、左右共に海に臨み、海岸の松風は、波濤に響をかわす、尤も佳景の地なり。海中姥島など称する奇巌ありて、眺望はなはだ秀美なり>などと称賛されている。

開港の頃には洲干島南側の入海は既に吉田新田、太田屋新田によって埋立られ、社の西側に野毛浦の入海が広がる地形になっていて、市街地が整備され弁天社へ通じる参道でもある「弁天通り」がつくられた。万延元年(1860)の横浜開港一周年の記念日には洲干弁天社にて祭礼が行われたという。

その後明治初年(1868)に明治政府の神仏分離によって弁天社は「厳島神社」と改称。弁天社周辺がさらに埋立てられたことを受け明治2年(1869)に羽衣町へ遷座した。

『御開港横浜之全図』 五雲亭貞秀 万延元年(1860) [国立国会図書館蔵]
開港1年後の横浜の様子。画面中央に広がる市街地の右端・多くの木々が立つ入海の入口付近が洲干弁天社。

御開港横浜之全図-THE YOKOHAMA STANDARD

『横浜神奈川二十八景之内 横浜弁天町鳥居前通り并弁天町一丁目四ツ辻を見込池を渡り本社に至り内浦を見渡ス之図なり』五雲亭貞秀 万延元年(1860) [国立国会図書館蔵]
背後に入海が広がり、松林に囲まれ瓢箪池のある風光明媚な境内の様子が伝わる。

横浜弁天町鳥居前通り并弁天町一丁目四ツ辻を見込池を渡り本社に至り内浦を見渡ス之図なり-THE YOKOHAMA STANDARD

羽衣町の厳島神社

厳島神社1-THE YOKOHAMA STANDARD

 

厳島神社2-THE YOKOHAMA STANDARD

 

厳島神社3-THE YOKOHAMA STANDARD

 

厳島神社4-THE YOKOHAMA STANDARD

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2017-02-09 | Posted in 歴史, 横浜の神社 | tag:

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