【横浜歴史画】横浜浮世絵・開港当時の港崎遊郭
横浜が開港した安政6年(1859)から7年間、横浜スタジアムのある横浜公園には港崎遊郭(みよざきゆうかく)」があった。当時描かれた横浜浮世絵から、現在の横浜公園からは想像もできない賑やかな花街の姿をうかがい知ることができる。
[港崎遊郭]
横浜開港にあたり遊郭の設置を決めた幕府は事業者を募り、これに応じた神奈川宿の善二郎、品川宿の岩槻屋佐吉・五兵衛、日本橋の金三郎、下総の愛次郎ら事業者たちに太田屋新田内の土地一万五千坪を貸与、安政6年6月2日(1859)の開港に合わせて開業するよう命じた。しかし、新田の埋立を伴う工事は難儀を極め事業者たちの財政をひっ迫。他の事業者らが次々に離脱してゆく中、岩槻屋佐吉は一人奮闘するも、とうとう6月2日には開業できず、6月10日にひとまずは駒形町の幕府所有地の仮宅にて開業することとなった。仮宅で営業を続ける間も引き続き工事は行われ、暴風雨に襲われるなど相変わらず困難を極めたが、ついに遊女屋・局見世・茶屋・芸妓屋などの諸施設が整い、駒形町の仮宅を引き払って安政6年11月11日(1859)に晴れて港崎遊郭は開業。岩亀楼主の佐吉が奉行所より廓の名主に任命された。
こうして開港横浜の街に出現した遊女街「港崎遊郭」は、年と共に繁栄を極め、江戸の吉原、京の島原、駿府の二町街にも比較されるほどの遊里となったが、世の栄華のはかないこと、慶応2年10月20日(1866)の大火、通称「豚屋火事」の災禍は絢爛たる色里を焼き尽くし、あまたの遊女たちの犠牲とともに、わずか7年で幕を閉じることとなった。焼失した跡地には後の明治9年(1876)に「彼我公園」と呼ばれる公園が整備されたが、これが現在の「横浜公園」である。横浜の遊郭はその後も幾度となく火災に遭いながら、吉原町遊郭、高島町遊郭、真金町永楽町遊郭と移っていった。
(参考)万延元年時(1860)・港崎遊郭の遊女屋
岩亀楼・五十鈴楼・新五十鈴楼・出世楼・金石楼・戸崎楼・開勢楼・新岩亀・岩里楼・伊勢楼・玉川楼・保橋楼・泉橋楼・金浦楼・大本楼 計15軒
『五十鈴楼・岩亀楼のつゝき・岩亀楼・港崎町会所の図』五雲亭貞秀 万延元年(1860) [国立国会図書館蔵]
『横浜岩亀楼の図』二代目歌川広近 [国立国会図書館蔵]
岩亀楼内部の様子
『大門前町港崎橋之景・大門出口の柳』五雲亭貞秀 万延元年(1860) [国立国会図書館蔵]
風情のある大門前の橋
『再改横浜風景』 五雲亭貞秀 文久元年(1861) [国立国会図書館蔵]
左から3番目の絵の川沿いにあるのが港崎遊郭
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