【横浜の坂道】いわな坂(保土ケ谷区)

保土ケ谷駅東口にある福聚寺前から丘の上の横浜清風高校へと至る「いわな坂」。坂名の由来は不明とされ、漢字で書くと「石難坂」、「石名坂」、「磐名坂」など諸説あるという。坂は金沢道(かなさわかまくら道)の一部を成していて、道沿いには史跡や古い地蔵があり古道ならではの歴史を感じさせる坂道となっている。

保土ケ谷駅近くの旧東海道沿いに金沢道(かなさわかまくら道)との分岐点となる通称「金沢横町」と呼ばれる四基の道標がある。ここから金沢道方面へ進み、踏切を超え国道1号を渡ると、国道脇の細道から「いわな坂」へと続いてゆく。坂下の「福聚寺」は南北朝時代の建武2年(1335)に現在の西区久保町にて創建されたと伝えられる古刹で、いわな坂沿いの現在地には寛政年間(1789~1801)に移転したという。福聚寺の山門を過ぎて少し進むと、ふもとに古びた庚申塔が立ち緑の生い茂るこんもりと小さな丘がある。苔むす石段を上ると丘の上は「御所台地蔵尊」と呼ばれる地蔵堂の他、元禄や宝永などの建立と刻まれた古い石仏が多数居並ぶ不思議な佇まいの小空間となっている。この丘の斜向かいにあるのが横浜市の地域史跡名勝天然記念物にも登録されている「御所台の井戸」であり、北条政子が鎌倉への道中にこの井戸の水を飲んで休憩したと伝えられ、明治天皇が保土ケ谷宿の本陣に立ち寄られた際にもこの水が使われたという。
御所台の井戸を過ぎると坂の傾斜はググッときつくなり、その昔はなかなかの難所であったであろうと思われる。現在坂の通る界わいは岩井町に属するが、昭和初期までには岩間上町といい、江戸時代には上岩間町と称し、丘上の北向地蔵のある辺りは岩間原と呼ばれた。であれば、語呂合わせ好きな江戸人が”いわま”を通る難所の急坂に『難』の字をあて、転じて”いわな”と呼ばれるようになったと素朴に推測してみるものの坂名の由来は定かではない。
緩やかに曲がりながら続く急坂を登りきると頂上の横浜清風高校前に出る。そのまま道を少し進んだ先の四辻角には、享保2年(1717)に北向き(江戸方面)に建立された「北向地蔵」が今も鎮座している。地蔵の角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれていて、金沢方面と弘明寺方面への道しるべも兼ねていた。北向地蔵までくれば弘明寺まであと2kmほど。ありし日には丘の上から弘明寺方面を見渡し、地蔵の脇でひと息ついてから、あともう少し!と歩みを進めたのかもしれない。

国道1号から脇に入る。

踏切の先に旧東海道との分岐点である「金沢横町」の道標がある。

坂下

 

坂下の左手に福聚寺の山門がある。

 

「御所台地蔵尊」下。階段脇にも古い庚申塔がある。

 

 

石段を上った丘の上に鎮座する御所台地蔵尊。

石仏群。

 

御所台地蔵尊の斜向かいにある「御所台の井戸」。

 

御所台の井戸近くから坂下方面を望む。

この辺りはかなり傾斜がきつい。

坂下方面をのぞむ。

 

頂上が見えてきた。

坂上の横浜清風高校前。

横浜清風高校前から坂下方面をのぞむ。

横浜清風高校から少し進んだ先の四辻角に鎮座する「北向地蔵」。

角柱に刻まれた道しるべ。

 

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2017-07-28 | Posted in 横浜の坂道, | tag:

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