【横浜の公園】山下公園
山下公園は横浜開港以来最大ともいえる危機から生まれた公園である。かつて山下町の地先はすぐ海で、波打ち際に沿ってつくられた通りは「BUND-海岸通り(現山下公園通り)」と呼ばれ、通りには多くの外国商館やホテルが立ち並び美しい街並みが形成されていた。しかし、大正12年(1923)に発生した関東大震災は通りの風景を一変させる。横浜最高のホテルと称されたグランドホテルをはじめほとんどの建物が崩壊し街は壊滅した。
震災後、大量に生じた瓦礫や焼土などを用い国の復興事業として旧海岸通りの地先を埋立てつくられたのが「山下公園」である。埋立には山下町の瓦礫に加え、元町百段の崖崩れや打越切通し工事にともなう土なども用い、大正14年(1925)から昭和5年(1930)まで4年の歳月をかけて整備し、昭和5年(1930)3月に山下公園は開園した。開園から5年後の昭和10年(1935)には横浜復興の姿を示すべく復興記念横浜大博覧会が開催され、万博のように様々なパビリオンが立ち並び、公園前の海に巨大ないけすをつくって鯨を泳がせるなどし、約60日の会期中に全国から320万人もの人々が訪れ(当時の横浜市民は約70万人)大いに賑わったという。しかしその後山下公園にとって厳しい時代がやってくる。第二次世界大戦中、公園は日本海軍により接収され、戦後は米軍により山下公園住宅地区として接収された。米軍による接収は長く続いたが昭和29年(1954)から段階的に解除され、昭和35年(1960)に再び市民に開放され憩いの場としての空間が取り戻された。翌昭和36年(1961)には引退した氷川丸が公園地先に係留されるようになり、以来氷川丸ともども横浜を代表するスポットとして親しまれている。
公園は横浜港に面した長さ約800mの臨海公園で、海に突き出すように設けられた半円形のバルコニーや、海に向かって横一列に置かれたベンチは山下公園の特徴的な景観となっている。公園西側には芝生広場が広がり、公園中央付近の沈床花壇はバラの名所としても知られる。沈床花壇の区画は幕末期に造られたフランス波止場のあった場所であり、開園当初は現在の姿と異なり船溜まり(ボートベイシン)が設置され、海からボートで公園に乗り入れることができた。また園内各所には童謡で知られる「赤い靴をはいていた女の子像」や、関東大震災で被災した在留インド人の慰霊のために建てられた「インド水塔」など様々なモニュメントが設置されている。平成19年(2007)には公園の歴史性と景観が評価され国の登録記念物となっている。
今年(2017)で開園87周年、2020年には90周年となる山下公園。開園以来、基本的な構造はさほど変わらない公園で、これまでどれほど多くの人がベンチに座り海を眺めたり、芝生の上でのんびり過ごしたり、氷川丸が係留されてからはこれと共に記念撮影をしたことだろうか。都市の壊滅という横浜存亡の危機の中から生まれたレガシーは、途中接収という中断がありながらも、いつも市民の憩い場として寄り添うようにそこにあった。そして、横浜といえばまず思い浮かべる心の風景とでもいうような、横浜を代表する唯一無二の場所となり、今なおその歴史を刻み続けている。
公園西側の芝生広場。
こんもりとした姿が可愛らしいマテバシイと港の風景。
「インド水塔」。昭和14年(1939)年に完成したインド式水飲場で、関東大震災で被災した在留インド人の慰霊のために建てられ、横浜市に寄贈されたもの。
ザ・山下公園の風景。ベンチに腰かけ海を眺めて過ごすのはいつの時代も山下公園の定番。
ベンチから眺める海の景色。
石積護岸が突き出したバルコニー(西側)。
西側バルコニーから氷川丸をのぞむ。
バルコニーには石造の階段があり、かつては水際まで下りることができた。
「赤い靴はいてた女の子像」
水際より西側の大さん橋方面をのぞむ。
水際より正面の鶴見臨港地区方面をのぞむ。
水際より東側のベイブリッジ・山下ふ頭方面をのぞむ。
陸側の遊歩道。
西洋理髪発祥の地記念碑「ザンギリ」
大きなクスノキの下は芝生広場の特等席。
立派なクスノキの幹。山下公園には大きく育った見事な樹木も多い。
「山下公園通り」。秋になると色づくイチョウ並木は横浜の黄葉名所。公園の通り側には長らく臨港線の高架があったが1986年に臨港線は廃止され高架も2000年に撤去された。
中央広場。
中央広場にある「水の守護神」は、姉妹都市となったサンディエゴ市から贈られたもの。
同じくサンディエゴ市から贈られた「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」
「かもめの水兵さんの歌碑」
バラの名所でもある沈床花壇。開園当初は現在の姿と異なり船溜まりであった。
氷川丸の手前に小さな橋は沈床花壇が船溜まりだったころの名残。ここが海からの乗り入れ口であった。
「日米友好ガールスカウトの像」
公園中央のバルコニーからみなとみらい方面をのぞむ。
氷川丸vol.1
氷川丸vol.2
氷川丸vol.3
氷川丸vol.4。氷川丸と仲よく並ぶ白灯台も明治29年竣工のハマの重鎮。かつては東水堤にあったが昭和38年に今の場所に移設された。
マリーンルージュ、マリーンシャトル、シーバスなどが発着する観光船のりば
山下ふ頭ができたのは戦後になってからのことだが、倉庫が立ち並ぶ埠頭も山下公園らしい風景の1つとなった。もっとも近年は貨物取扱量も減少し、新たな賑わいの拠点として水と緑に親しめる水際空間などへ生まれ変わる予定。
フィリピン独立闘争の士「リカルテ将軍記念碑」。1915年に日本に亡命し山下町に住み、よく山下公園のベンチから静かに海を見つめていたと伝えられる。
山下公園の風物詩でもあるアイスクリーム屋台。
晩秋の黄葉が美しい公園東側の大銀杏。
大きな口をあけた巨大なアンコウのような石造のある「石のステージ」。公園東端のこの辺りは横浜博覧会に際して再整備されたゾーン。
「世界の広場」はちょっとシュールな空間。
水の階段より公園をのぞむ。
‐おわり‐
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