【横浜の公園】掃部山公園
「掃部山」とは「かもんやま」と読み、園内の頂上に立つ井伊直弼像の官位である『掃部頭(かもんのかみ)』に由来する。彦根藩13代藩主にして幕府の大老であり、日米修好通商条約締結を断行し、安政の大獄にて反対勢力を退け、最後は桜田門外の変にて斃れた井伊直弼。像が横浜にあるのは、藩主の『開港』という功績を顕彰せんとする旧彦根藩士たちがゆかりの地としてこの地を選んだことによる。
公園のある高台は、江戸時代までは「不動山」と呼ばれ、明治初期には鉄道開通に携わった鉄道技師の官舎が建てられ、山の地下水を鉄道用水として利用したことから「鉄道山」と呼ばれていた。その後明治17年(1884)に旧彦根藩士らが一帯を買い取り井伊家に寄贈し「掃部山」と呼ばれるようになった。そして明治42年(1909)の横浜開港50周年に際して直弼の銅像を建立した。毀誉褒貶の激しい井伊直弼は藩閥政府にとってかつての政敵であり、政府元老たちの反発から像の除幕式は当初の7月1日から延期させられるなどしたが、7月11日に開催され大隈重信らが出席した。敷地はその後大正3年(1914)に井伊家より横浜市に寄付され、同年に「掃部山公園」として開園した。
大正12年(1923)の関東大震災では、園は壊滅的な被害を受け、井伊直弼像も倒壊は免れたものの台座が25度傾いた。そして第二次世界大戦中の昭和18年(1943)には、像は金属回収のために撤去されてしまった。現在の像は2代目であり、昭和29年(1954)の開国100年祭に際して横浜市が依頼し鋳造家の慶寺丹長父子によって復元鋳造されたものである。
掃部山公園は春には横浜有数の桜の名所としても知られる。戦時中には桜の木も燃料として伐採された為、現在の桜は戦後に植えられたものだという。桜の他にも公園内には様々な草花、樹木が生い茂り、今の季節(6月)は紫陽花が園内各所を彩る。池を配した和風庭園があり、公園の一角に横浜能楽堂があるなど和の風情を随所に感じさせるつくりとなっていて、茶道に通じていた井伊直弼にちなみ昭和40年(1965)より毎年夏には「虫の音を聞く会」という茶会が催されている。
休日には散策路をのんびり歩いたり、掃部頭の下の広場でお弁当を食べたり、子供たちは遊具広場で元気に遊んだりと、思い思いの時間を過ごす多くの人の姿が見られる。開園から100年以上を経た今も変わることなく地域に親しまれ、公園の頂上では井伊掃部頭直弼が眼光鋭く港の方を見渡している。
県立音楽堂側の正面出入口
公園案内図
桜が名所の掃部山であるが6月には園内各所に咲く紫陽花が綺麗。
銅像広場からのぞむ井伊直弼像
直弼像の前から港方面を望む。
像の「台座」は初代の時からのもので横浜市認定歴史的建造物に認定されている。台座の設計は旧横浜正金銀行(神奈川県立歴史博物館)を設計した妻木頼黄。
同じく横浜市認定歴史的建造物に認定されている「水泉」。初代像建立時に井伊直弼の子息である井伊直安によって設置された。
仙台枝垂れ桜。横浜市西区の区制60周年と掃部山公園開設90周年を記念して仙台市から贈られた記念樹。
ケヤキの大木
公園南側、掃部頭像の裏手にある横浜能楽堂。能楽堂の本舞台は明治8年に東京根岸の前田家に建てられ、後に東京染井に移築された旧染井能舞台を移築復元したもので横浜市指定文化財に指定されている。
園内西側の散策路。
戸部通り出入口付近のブラフ積擁壁。鉄道官舎時代に築かれたが、この場所の擁壁は一旦解体し復元したもの。
公園中央の見晴らしの良い園路
花咲町に生まれアララギ派の歌人飯岡幸吉の歌碑。歌碑には「虫の音を聞く会」を題材にした歌が刻まれている。
石灯籠のある日本庭園
滝近くの小道
滝の水は今は枯れている。
遊具広場では子どもたちが元気に遊んでいる。
公園東側の園路
桜の樹は老成し躍動感のあるものが多い
園路から花咲町、みなとみらい方面をのぞむ。
―おわり―
掃部山公園
所在地:西区紅葉ケ丘57
JR線・市営地下鉄線「桜木町駅」より徒歩15分
(関連記事)
【歴史的建造物アーカイブ】井伊直弼像台座及び水泉
【横浜の桜2017】掃部山公園の桜(西区)
【横浜の坂道】紅葉坂(西区)