【旧道・古道】横浜旧東海道を歩く~戸塚宿vol.2~

戸塚宿の中心である江戸方見附と上方見附の間は、現在の戸塚駅の東側から西側にまたがり今も戸塚区の中心部として賑わっている。宿場を多くの人々が行き交い賑わった開港以前のハマの歴史を感じながら、「戸塚宿vol.2」では歌川広重にも描かれた「大橋」を渡り、今回の終着点である大阪下の「上方見附跡」を目指す道のりを行く。

【東峯八幡(とうのみねはちまん)】
江戸方見附から戸塚宿の宿内(中心部)に入り、吉田大橋の手前でしばし寄り道、吉田町の鎮守で永久2年(1114)創建とされる「東峯八幡」を訪ねる。まず目を引く境内の古木は、樹齢640年ともいわれるシイの巨木。貫禄のある太く力強い幹からのびる元気な枝葉がドームのように境内を覆う姿は見事。このシイは「白旗のシイ」と呼ばれ、古くは源義家が奥州へ向かう際に馬をつなぎ休憩したとも伝えられる。境内は子どもたちの遊び場になっていて、シイの巨木に見守られて、子どもたちが元気に遊んでいた。

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【妙秀寺(みょうしゅうじ)】
東峯八幡を後にし、吉田町の路地を進むとほどなく「妙秀寺」に出る。創建は延文元年(1356)と伝えられ、境内にある「かまくら道」の道標は、歌川広重の「東海道五拾三次之内 戸塚」において大橋のたもとに描かれていた道標が移設されたものといわれている。

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【吉田大橋[大橋]】
妙秀寺から国道1号線に戻り、少しばかり歩けば歌川広重の「東海道五拾三次之内 戸塚(保永堂版)」に描かれた「吉田大橋(大橋)」に出る。木橋はコンクリート橋に変わり、橋のたもとに描かれた茶屋も今は無いが、現在も多くの人や車が行き交い、橋の下を流れる柏尾川も健在で、どことなく昔の面影を残しているように感じさせる。戸塚駅側のたもとには休憩場があるので、大橋でひと休みというありし日の情景を味わってみるのもよい。

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【善了寺(ぜんりょうじ)】
吉田橋からほど近くにある「善了寺」は、天福元年(1233)に開山したとされ、はじめは現在の泉区和泉町にあったといい、その後天正年間(1573~1592)に再興されたという。江戸期には矢部の問屋場が置かれ、明治期には問屋場跡に明允学舎(めいいんがくしゃ)という学校が置かれた。

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【戸塚大踏切跡とアンダーパス】
善了寺を過ぎると戸塚駅の中心部。かつて戸塚駅における東西の横断は”開かずの踏切”として知られた「戸塚大踏切」を渡らねばならず、最大で57分もの遮断を余儀なくされたが、平成26年(2014)にまず踏切の上をまたぐ歩道橋「戸塚大踏切デッキ」が完成。続いて平成27年(2015)には東西を貫く自動車・オートバイ専用のアンダーパスが完成し、これに伴い戸塚大踏切も閉鎖、町の東西を繋ぐ役目を終えた。今後、徒歩による東海道中では「戸塚大踏切デッキ」を上り下りし道を行く。

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【清源院(せいげんいん)】
戸塚駅西口にある「清源院」は、徳川家康の側室の一人で今の泉区岡津町出身といわれる於万の方が家康の菩提を弔うために興したと伝えられる。本尊は於万の方が家康を見舞った際に拝領したとされる歯吹阿弥陀如来。於万の方自身はここで火葬され、遺骨は高野山に納められ、寺には牌が遺されている。現在(2016.1)は本殿の新築工事が行われている模様。

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【本陣と脇本陣】
国道1号に戻りバスセンター前から戸塚消防署付近にかけての通りは、戸塚宿の「本陣」や「脇本陣」があった所。本陣は一般客が宿泊する旅籠と違い、天皇の勅使、公家、大名、役人などが泊まる宿泊施設で、脇本陣はその補助的な施設。戸塚宿に本陣は「澤邊本陣」と「内田本陣」の2軒、脇本陣は3軒、一般の旅籠は75軒あったという。

バスセンター前

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澤邊本陣-本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたり幕府に強く働きかけた功労者といわれる

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羽黒神社-澤邊本陣の敷地一角にある戸塚宿鎮守の1つ。弘治2年(1556)に澤邉河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりとされる

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【八坂神社(やさかじんじゃ)】
澤邊本陣跡から平坦な道が続く通りを300mほど進むと、元亀3年(1572)に牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)を勧請して創建したと伝えれ、”お天王さま”と呼ばれ親しまれている「八坂神社」がある。毎年7月14日に行われる「お札まき」は、紅をさして女装した男衆が、無病息災を祈願して町内を歌い踊りながらまわり、「正一位八坂神社御守護」と書かれたごりやくあるお札をまく、という行事で横浜市の指定無形文化財にも指定されている。

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【冨塚八幡宮(とみづかはちまんぐう)】
八坂神社を過ぎ、少しばかり歩けば戸塚宿の総鎮守「冨塚八幡宮」の鳥居が見える。祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと) [応神天皇]と冨属彦命(とつぎひこのみこと)。源頼義・義家父子が、「前九年の役」平定のため奥州に下る途中この地で野営した際に、夢で応神天皇と冨属彦命の信託を受け戦功を収めたことに感謝し、延久4年(1072)に社殿を造り、両祭神を勧請したことが始まりとされる。山頂の古墳は”冨塚(とみづか)”と呼ばれ、これが”戸塚(とつか)”の地名の由来になったと伝えられている。急な石段を上った先、木立に囲まれ柔らかな光が射し、踏み固められた土の地面が広がる境内に立つと、いにしえより続く情景が思い起こされる。

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【上方見附跡】
冨塚八幡宮を過ぎると、長らく柏尾川と平行に真っ直ぐな道が続いてきた道が西へ大きく曲がり始め、ほどなくすると今回の目的地で戸塚宿の京都側出入口である「上方見附跡」に到着。

上方見附跡

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大阪の坂下

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品濃一里塚を出発してからここまで2里弱(約7.4km)の道のりを歩いた。江戸時代の人々は、日本橋から最初の宿泊地とする戸塚宿まで10里半を(約42km)を1日で歩いたというから相当な健脚である。今は東戸塚から戸塚まで歩く機会というのもそう滅多にあるものではないが、歩いてみれば古来からの痕跡に数多く出会えることに驚かされながら歩むあっという間の道中であった。これより先藤沢宿へは、難所「大阪」を越え、原宿の一里塚を経て向かう道のりとなる。

完-横浜旧東海道を歩く 戸塚宿vol.2(東峯八幡~吉田大橋~上方見附跡)-

 

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2016-01-21 | Posted in , 旧道・古道 | tag:

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