【YOKOHAMA SNAP】京急富岡駅下の人道トンネル
横浜市中心部が壊滅した昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲から12日後の6月10日、市南部の富岡でも米軍による空襲を受け甚大な被害を受けた。戦時中、富岡地区周辺には横浜海軍航空隊基地をはじめ、日本飛行機富岡工場や大日本兵器富岡製作所などの軍事・軍需施設があり、空爆はこれらの施設を目標としたものだったが、爆弾は広い範囲に投下され一般市民にも多数の死傷者を出し、特に現在の京浜急行線の富岡駅ではたくさんの犠牲者を出した。
富岡の古刹・慶珊寺(けいさんじ)の佐伯隆定住職が記した『武州富岡史話』によると、空襲時、電車は富岡駅に停車していたが、警報が出で多くの乗客が駅下の人道トンネルに避難し、車両も残る乗客と共に駅近くのトンネルに移動した。しかし、数十発の爆弾が駅周辺で炸裂し、電車を降りて避難した人々、乗ったまま避難した人々、どちらからも多数の死傷者が出たいう。富岡駅で被害にあった遺体の多くは慶珊寺に運ばれてきたといい、当時11歳であった住職はその日のことを次のように伝えている。「・・・しばらくして母親が悲鳴をあげて家に飛び込んできた。その先をみると門前に停まったトラックから戸板や焼けトタンに載せられた死体が次々と境内に運ばれてくるではないか。足のない胴体だけの遺体、肉の塊だけの遺体、思わず目を覆うような光景が目の前に並んでいる。あの無惨な様子は万言を費やしても書きつくせない世界であった。11歳の少年にはとても正視する勇気はなかった。この日境内に安置された遺体の総数は40体と言われた。(『武州富岡史話』より)」。富岡の空襲では軍事施設を狙った通常爆弾が使用されたとされ、被害の様相も焼夷弾の場合とは異なり、破壊力が大きく家が吹き飛んだり死傷者の大半が即死するなど悲惨なものであったいう。
人道トンネルは戦後70年以上を経た現在も残り、駅の東西を行き来する通り道として利用されるとともに、富岡の町が空襲を受けた記憶を静かに伝えている。
京急富岡駅・改札口側(東側)
トンネル入口
トンネル内部
駅西側のトンネル入口