【旧道・古道】朝夷奈切通
鎌倉と六浦(金沢区)を結ぶ国指定史跡の古道「朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」。約1km続く道のうち頂上の大切通付近より東側が横浜市域となっている。自然に囲まれた山の間をまさに切り開いたような道には、高さ16mの小切通や18mの大切通の垂直に切立つ迫力ある岩壁をはじめ、往時の景観がよく残されており、歩きながら歴史を直に感じるような稀有な空間となっている。
三方を山に囲まれ防衛に有利な地形である一方、交通には困難をともなった鎌倉において、鎌倉幕府は山を開削して人・モノの往来を可能にするいくつもの切通をつくり、それらのうち重要なものは後に「鎌倉七口」と呼ばれた。「朝夷奈切通」はその一つで、鎌倉と当時幕府の外港として発展した六浦湊を結ぶ重要な交通路であった。
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、仁治元年(1240)11月に道を開くことが決まり、翌仁治2年(1241)4月から工事に着手。第3代執権北条泰時自ら現場へ足を運び、時には自分の馬で石を運ばせ工事を急がせた、などと伝えられる。工事が完成すると、房総方面や中国などとの物流の拠点である六浦湊と鎌倉を結ぶ「朝夷奈切通」は、物資を鎌倉に運ぶ重要なルートとなり、当時は産地として知られた金沢の塩も切通を通って鎌倉に運ばれたという。
尚、”朝夷奈”の名は、古くから伝えられる和田義盛の三男・朝夷奈三郎義秀が一夜で切り開いたとされる伝承が由来とされる。また表記については古来、”朝夷奈”、”朝夷名”、”朝比奈”など様々に表記されるが、横浜市金沢区の現行地名は”朝比奈町”、国の史跡としては”朝夷奈切通”と表記されている。
鎌倉時代以降何度か改修工事が行われながら、昭和31年(1956)に切通を迂回する県道金沢・鎌倉線が開通するまでは県道として利用されてきた「朝夷奈切通」。その後も開発などにより破壊されることなく往時の景観ををよく留めており、昭和44年(1969)には<鎌倉の地勢と外部との連絡状況を示す貴重な史跡>との理由から国の史跡に指定。その後、平成15年(2003)には西側出入り口部付近の納骨堂跡が、平成19年(2007)と平成20年(2008)にも切通の周辺地域が追加指定されている。
環状4号線の朝比奈インター手前で脇道に入り、しばらく進むと朝夷奈切通の横浜・金沢側の入口。入口付近には石仏が並んでいる。
横浜横須賀道路の高架と岩壁が交差する不思議な空間。
切通の周囲にも豊かな自然が残されており、道筋には青々としたシダ類が繁茂している。
入口からしばらく進むと「小切通」が現れる。
小切通の中から頭上を見上げる。
小切通を抜け再びシダの生い茂る道を行く。
小切通を過ぎしばらく進み、きれいな杉の木立があらわれると間もなく熊野神社との分岐点。
熊野神社との分岐点。
分岐点前の見事な岩壁。
大きな岩の埋まった坂を上ると、横浜と鎌倉の境界である大切通に出る。
「大切通」。この辺りが鎌倉市と横浜市の境界。
大切通の崖に掘られた仏像。
大切通を過ぎ鎌倉市側に入る。この辺りは鎌倉市側を流れる滑川の支流である太刀洗川の源流域になっており、道に山の水が染み出ている。
道がだいぶ湿ってきた。石と泥の路面を注意しながら慎重に進む。
下ってきた道を振り返る。道が直線的に深く切り下げられている様子がわかる。
延宝三年と刻まれた道端のお地蔵様。
水が染み出してしっとりとした岩壁に植物が茂る。
湧水が徐々に小川になり、苔むす小さな橋の下を流れてゆく。
朝夷奈三郎に因む「三郎の滝」。ここが朝夷奈切通・鎌倉側の口。
―終わり―
朝夷奈切通
所在地:横浜市金沢区朝比奈町字峠坂1番地、鎌倉市十二所
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