【横浜の橋】吉田橋
馬車道から伊勢佐木町・吉田町方面を結ぶ「吉田橋」。開港時に開港場の中心部と吉田新田を結ぶ橋として架けられ、交通の要衝として長きに渡って膨大な往来を渡し、現在は5代目の橋が架かる。
<仮橋~初代>
安政6年(1859)に吉田新田と太田屋新田の間に木橋を仮設したのが吉田橋の始まりとされ、文久2年(1862)に本橋を架け直し「吉田橋」と名付けられた。東海道から横浜道を経て開港場へ入る重要な交通路であったことから、橋のたもとには治安維持の為に関門が設けられ、これが後に『関内』・『関外』の語源となった。(関門は明治4年に撤廃)
<2代目>
明治2年(1869)年に”横浜まちづくりの父”として知られるイギリス人技師ブラントンによって鉄橋に架け替えられたが、これは長崎の『くろがねばし』に次ぐ日本で2番目の鉄橋で、トラス構造をもつものとしては日本初の鉄橋であった。橋を渡るのに通行料(お金)が必要だったこともあり、鉄(かね)と金(かね)をかけて『かねの橋』と呼ばれ、横浜の文明開化の象徴として世にその名を轟かせた。
<3代目>
『かねの橋』は横浜の中心地で42年間親しまれてきたが老朽化が進んだことにより、明治44年(1911)に歩道・車道・電車道を備えた鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。橋の設計は石橋絢彦。半円形のバルコニーのあるアーチ橋でポンヌフ橋を思わせるヨーロッパ風の華やかな橋であった。大正12年(1923)の関東大震災では、派大岡川に架かる多くの橋が落下・焼失する中、吉田橋は崩壊せず、多くの市民の避難を助けたという。
<4代目~5代目>
戦後になり昭和33年(1958)にも架け替えが行われた。昭和52年(1977)には最初の架設以来橋の下を流れた派大岡川(現在の西之橋付近から桜木町方面に向って流れていた川)の埋立が完了し、跡には首都高速が走るようになった。現在の橋は、首都高速の建設にともなって昭和53年(1978)に架け替えられたもので、この際に『かねの橋』時代の欄干が復元された。
開港時より150年以上同じ場所に架かる吉田橋。周囲に入海が広がっていた風景は無くなり、橋の下には川ではなく高速道路が走るようになった。横浜中心地に架かる橋としてこれまで途方もない数の人・馬・車を渡してきた橋は、周囲の環境が劇的に変わり続けていくなかで、同地に変わることなく架かり、関内から関外への往来を今日も渡し続けている。
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